尖った自分とお別れし、今をヌルく生きよう! 〜『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』によせて

来る10月1日、『ロスジェネ心理学』(弊社刊)で華麗なデビューを飾り、『「若づくりうつ」社会』(講談社現代新書)で気鋭の精神科医論客としてその名を世に知らしめた、シロクマ先生こと熊代亨さんの新刊『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』が発売されることとなりました。
現在はすべての編集作業を終えて印刷所入稿を済ませたところで、あとは本が出来上がってくるのを待つばかり。今回はこの待ち遠しい新刊について、内容紹介はすでに熊代先生がご自身のブログ「シロクマの屑籠」にて書かれていますので、私(担当編集)は制作裏話のようなことをご紹介できればと思います。

デビュー作『ロスジェネ心理学』を弊社より出版させていただいたのが、2012年10月。その後先生と私の間では、次回作の構想について時にはメールで、時には直接お会いして話を進めてきました。
『ロスジェネ心理学』は1975年生まれの熊代先生ならではの時代感覚と当事者意識に貫かれた作品ですが、それゆえに、「思いのたけをぶつけるんだ」という意気込みと「全部言い切るんだ」という総合的な視点が前面に出た一冊となりました。伴走者たる私も1976年生まれとほぼ同世代。オタクとサブカル(相当ヌルいですが……)という出自の違いこそあれ、同じ時代精神を背負い、それと真正面から格闘する気持ちで本作りを進めていきました。
『ロスジェネ心理学』は刊行後の評判も上々で、何より先生がその後、期待の論客として出版界のみならず、新聞やテレビからも注目される存在になったことを思えば、出版社として冥利につきる仕事だったように思います。

しかし先生と私の間では次回作を構想するにあたり、『ロスジェネ心理学』のような作品はもういいか、という気持ちが芽生えていました。いや、先生がいま言論界に打ち立てつつある“大伽藍”において『ロスジェネ心理学』は本殿に鎮座するものであり、熊代亨のエッセンスが余すところなく凝縮されたものなのですが、それをまた同じチームで続けるのはいかがなものかと。ここには、すでに他社企画において「本殿」が追求されていたという事情もあったかもしれません(その結実が『「若作りうつ」社会』だと私は思っています)。
次の企画は、本筋というよりもむしろ、そこを掘り進めていくうちに自ずと発生する副産物に注目して何か論を打ち立てることはできないか。『ロスジェネ〜』が通史として年表を捉えたものだとすれば、次回作は年表の中のある時代にフォーカスし、そこでメッシュの細かい議論ができないか。あえて重箱の隅をつつくことで、時代を射抜くような視点を手にすることができるのではないか……。先生と私は、情熱のベクトルを(客観的に見れば)「どうでもいい話」に差し向けていったのです。

あれは去年の夏、うだるような暑い8月の日でしたが、先生が東京に来られるタイミングでお会いし、八重洲ルノアールにて存分に「どうでもいい話」に花を咲かせました。
これに先立ち、80年代以降の若者文化における「族」(トライブ)の隆盛というようなテーマで意見交換はしていて、昨今のヤンキー論を踏まえた「基本的に日本国民のデフォはヤンキー」といった認識や、「ヌルオタ・ヌルサブの増殖はどうしたことか(嘆かわしい!)」といかにも70年代生まれらしい問題意識は共有していました。
しかしあの夏の日の議論(というよりおしゃべり)において、われわれは認識を根底から覆すものの存在に気づきました。「リア充」です。
トライブとして生きることに人生を捧げている多くのロスジェネ世代に対し、最近の若い「地元のリア充」は、各トライブが「目的」としていたもの――「マニアック」なり、「最先端」なり、「気合い」なり――を「手段」と位置づけ、日々コミュニケーションの強化と人間関係のメンテナンスに余念がない。つまりここではわれわれが魂を預けてきたものが「従」であり、仲間と「一緒にいる」「楽しくやる」ことが「主」なのです。この逆転の構図に気付いたとき、各トライブ間でしのぎを削る勢力争いなどしている場合ではない、そんなことにかまけているうちに窓の外は一人で生きていくにはあまりにも過酷な季節になっている、と慄然とした気分に襲われました。そう、それはまさに、『ロスジェネ心理学』の時にも感じた、我々世代が“梯子を外された”あの感覚だったのです。もう“差異”とか“アリ/ナシ”とか言ってる場合じゃないんだ、と。
「どうでもいい話」のおしゃべりは、リア充という対置概念により、急激に「身につまされる」話へと変化していきました。ちょうど「こじらせ」とか「残念」という言葉が人口に膾炙し始めた頃でもあったでしょうか、先生と私はいつしか、同じ時代を駆け抜けてきた同輩たちと、何より自分の中で死ねずにいる「あのころの自分」に対してトドメの一突きを放ち、同時に供養の儀式を執り行うんだ、そういう「厳かな」心境に至ったのです。
そこから先生の本格的な執筆となったのですが、先生は今回、「おくりびと」のような気持ちで原稿を書いていかれたのではないかと推察します。

さて、『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』の装丁についても触れておきます。
前述のように、『ロスジェネ〜』とは違う企画にしようと始まった今回の本が、結果的に続編というか、総論に対する各論のような位置づけになったことは、当然この本のデザインにも反映されました。『ロスジェネ〜』がニュータウン然とした郊外の住宅地の写真を用いていたのに対し、こちらは国道沿いにコンビニやラーメン屋などが立ち並ぶ“ファスト風土”の写真を配置しています。ニュータウンで育った者たちが、これから国道沿いで生きていくにはどうすればいいか――ヌケのいい地方の青空に、そういったストーリーを感じていただければ幸いです。
実はこの写真、装丁を担当いただいたデザイナーの黒瀬章夫さんと、今年の夏の盛りにロケハンに出かけて撮った渾身の一枚で、熊代先生も大満足のカバーデザインとなっています。黒瀬さんにはあらかじめゲラを読んでいただいたのですが、彼も「身につまされる思いがしました」と「おくりびと」モードになり、著者、担当編集、デザイナーともに野辺の送りをする気持ちでこの本を仕上げていったのです。

脱稿のタイミング、最後に「あとがき」をくださった時の先生の言葉が印象的です。
「お線香の本数、多めにしておきました」
こんなふうにして、かかわった人間すべてが「供養と鎮魂」という気分を共有して作り上げていった人文書は、ちょっと他にはないような気がします。
もちろん本書には、ロスジェネ世代へのレクイエムだけでなく、巷間言われる「マイルドヤンキー」論への熊代先生なりのアンサーや、ファスト風土在住の書き手によるファスト風土論であることなど、他にはない特長が目白押しです。
本当に面白い本になったと胸を張ってお勧めできる自信作です。この本を読むことで、“尖った自分”と決別し、年相応に“ヌルくなった自分”を愛することができるようになれば、生きていくのはぐっと楽になるはずです。ぜひみなさん、こじれている人もそうでない人も、書店で手に取ってみてください。
(佐藤)