あふれ出る当事者意識――「ロスジェネ心理学」によせて

ずいぶん久しぶりの更新になります。今後は新たに加入したスタッフも含め、花伝社のあれこれを(できるかぎり)こまめに伝えていきたいと思いますので、改めてお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

さて、10月新刊として『ロスジェネ心理学――生きづらいこの時代をひも解く』という本を刊行する運びとなりました。著者は1975年生まれの精神科医、熊代亨(くましろ とおる)先生。「はてな」ではかなりのページビューを誇るブログ「シロクマの屑籠」を書かれている方です。
タイトルからおわかりのとおり、本書はいわゆるロストジェネレーション――1970〜80年代前半に生まれた団塊ジュニア就職氷河期世代――を取り巻く社会背景や心理傾向を取り扱っています。しかし、2009年あたりに盛り上がりを見せた「ロスジェネ論壇」の論考とは完全に一線を画す内容であることは、著者の熊代先生も担当編集者の私も、ロスジェネ世代の一人として強く確信しています。
『ロスジェネ心理学』の何が他と違っているのか? それはずばり「当事者意識」につきると思います。
経済状況の巡り合わせなどから、それまで先行世代が享受していた社会的リソースの配分に与ることができなかったロスジェネ世代。「ロスジェネ論壇」では社会状況の変化によって貧乏くじを引かされたかたちの彼らに対し、同情的に彼らの“叫び”を吸い上げ、不公平を糾弾する“義憤”が満ちていました。私も同世代の人間として、自分たちの世代を味方してくれる論調の出現を不愉快に思うはずもなく、淡い期待のようなものを抱いていたのですが、その感情が違和感に変わっていくのにそう時間はかかりませんでした。
結局のところ「論壇」では、すべての物言いが他責で語られていることに気付いたからです。自分たちが苦境に立たされているのは、団塊世代を中心とした先行世代が貪欲なためであり、既得権を死守するために後に続く世代に負債を押し付けているからだ――こういった敵の設定と被害者への名乗り上げに端を発する“運動”が、これまで人類をどれほど破壊と愚行に走らせたか、歴史を振り返るまでもありません。私は「またこのパターンか」とうんざりしてしまったのです。
私の人生で起るほとんどの出来事は、私の意思など及ぶところのない偶然によってもたらされています。しかし、すべての出来事について結果の責任を引きうけるのは、誰あろう私以外に存在せず、その方法として、自分に与えられた場所で与えられた仕事を(できるだけ真面目に)やっていく以外のことを私は知りません。この考え、というか感覚は、いかに「論壇」の人たちに「それは新自由主義者に思い込まされている自己責任イデオロギーなんだよ」と“教化”されても、私には手放すことができません。社会的リソース配分の機会を損失することよりも、自分の人生に対する主体性を失うことのほうが、私には重大な問題に思えるからです。

『ロスジェネ心理学』の根底にあるのは、まさにこの主体性です。熊代先生の筆は、現役の臨床精神科医ならではの卓抜な手さばきで対象を捉えていきますが、読者が感じるのはその怜悧さよりもむしろ、身につまされるような当事者意識でしょう。ロスジェネ世代を取り巻く社会変化から形成される心理的傾向についての考察も、大所高所からの評論ではなく、自らののたうつような経験を基礎に得られた、腑に落ちるものばかりです。
自分たちが被った被害をひたすらリストアップするような物言いとは対極にある、冷静な分析と主体性に満ちた提言に、徹頭徹尾、本書は貫かれています。私達が「梯子を外され」て期待外れの現在を生きていることを織り込んだうえで、そんな自分達がどのような義務と責任を負い、世の中に何を働きかけていくことができるのかを模索する様には、感動すら覚えます。
本書の白眉は、心理学における「自己愛」の概念を用いた今後のロスジェネ世代への行動提言なのですが、これは特定の世代に限らず、“自己実現”という言葉に踊らされ自己利益の追求にばかり汲々としている現代人にとって、処方箋ともいうべき内容を備えています。詳しくはお手にとって読んでいただくとして、これほどまでに鋭くかつ自省にみちた提言を、私は近年読んだことがありません。

……とここまでずいぶん四角ばったことを書いてきましたが、『ロスジェネ心理学』は面白く気軽に読める、軽妙洒脱な読み物に仕上がっています。このあたりは、生粋のオタク(“専攻”はシューティングだそうです)である熊代先生のなせる業で、ウイットに満ちた文体と随所にみられるカルチャーへのまなざしは、読むものの好奇心を刺激せずにはおきません。
ロスジェネ世代に限らず、少しでも「よく生きたい」と思う方にとって、『ロスジェネ心理学』は必ず響く本です。読書の秋、何か読んでみようという方に、自信をもっておすすめします。

(佐藤)