『宗教と政治の転轍点』が示す転轍点

気づけば桜は満開、そしてあっという間に散ってしまった今年は、春らしく目まぐるしく天気の変わる日々が続いています。
そんな4月、満を持して出版する新刊をご紹介したいと思います。

國學院大學研究開発推進機構助教、宗教社会学者の塚田穂高先生による『宗教と政治の転轍点――保守合同政教一致の宗教社会学』は、掛け値なしに、これからの宗教社会学にとって避けて通ることのできない、メルクマールとなる1冊です。

なぜそう言えるのか? それは『宗教と政治の転轍点』が、憶測や類推に基づく印象批評や、特定の状況だけをクローズアップして思い込みを組み立てるような物言いを含まず、すべての論と考証が、気の遠くなるような事実収集と緻密な分析に裏付けられた実証的内容で充たされているからです。
著者の地道で丹念な仕事の結果として、宗教学者はもちろん、社会学者、政治学者、教団関係者そして国民にとっても、新たな議論のプラットフォームとなる可能性を秘めた本書。本当にこの本を弊社から出版できることを、私は誇りに思います。

宗教という分野を論じるときまず問われるのは、その人がどのような立場にあるのか、ということです。
ある人にとってはまったく無縁の世界であり、ある人にとっては人生のすべてを捧げる対象ともなり得る宗教。そして語りだせばすぐに「異端と正統」「正義と悪徳」といった二元論が落とし穴のように出現し、“洗脳”というレッテルが驚くほど簡単に発行されるこの分野において、説得性と普遍性を備え歴史の点検に耐えうる言説を世に問うていくのは、本当に至難の業であり、何より相当な覚悟と根気がないとなし得ない行為です。
若き宗教社会学者にこの労作を書かせたものは、宗教と社会が交わるとき、そこにどのような熱が生じるのか、そしてその熱は社会に何をもたらすのかを明らかにせんとする学究的探求心であり、軽薄な物言いや極論が横行する宗教言論に対する研究者としての矜持ではないのか――私は塚田先生との仕事を通じてそのゆるぎない立ち位置、「学者として宗教を考える」態度を強く感じました。
私は、「情熱」という言葉は、やたらと熱かったり扇情的だったりするものの特性としてでなく、継続的で粘り強い取り組みをもたらすひたむきさにこそ冠されるべきだと、先生の姿を見て思うものです。

『宗教と政治の転轍点』は、大きく2部構成でできています。
第I部においては神道系を中心に、保守合同勢力の政治へのかかわり方を取り上げています。この場合、自分たちで政党を作って政治進出するのではなく、特定の政党・政治家を支持するかたちで間接的に政治関与しているのですが、現政権と宗教運動との連関がかつてない鮮度で明らかにされています。
第II部においては、直接的に政治進出を行ってきた宗教運動の動きを取り上げます。選挙結果などのデータはもちろん、政治進出の背景となったその国家観、ユートピア観が検分され、「なぜ政治進出したのか」「なぜ政治関与を続けるのか」が実証的に明かされます。
両方において言えるのは、これは歴史の話ではなく現在進行形の話であり、多くの人がこれまであいまいに取り扱ってきた国民的課題だということです。もちろん本書は、「宗教団体の政治進出は是か非か」というような、単純な二元論を問うものではありません。そういった雑駁な議論に陥りがちな構造を真正面から見据え、学究的手法でその背景まで踏み込んだ内容であり、この前人未到の仕事を踏まえたうえで、「宗教と政治」についての本当の議論がこれから始まるのだと思います。

学問研究に限らず芸術やスポーツの世界でも、これまでの“標準”を一気に引き上げるような仕事がなされることがしばしばありますが、私たちは『宗教と政治の転轍点』をまさにそうした一冊として、自信をもって世に送り出します。
「転轍」点とはマックス・ヴェーバーの用いた「転轍手」を引いた、もともとは鉄道用語で、後戻りのできない決定的な切り替えポイントを示す言葉ですが、宗教運動と政治の間に刻まれた転轍点を描き出した本書が宗教研究の転轍点になっていることは、著者の情熱を考えれば偶然でもなんでもありません。
重い課題と正攻法で真正面から格闘した塚田先生に心からの敬意を表するとともに、今後の活躍を期待してやみません。
(佐藤)